monk architect blog

漂流冒険家の末裔 波乱万丈

欧州徒然 半世紀前の建物スケッチ

大学を卒業して一年働き、誘われて欧州一月半

その間 旧職扱い。オイルショックで就職先は

ほぼ門戸閉ざしたまま。

伝手のないままに図面抱えて事務所廻り。

まだ残っていた事務所で、今から思うと随分と

厚遇してくれたなと思う。

欧州建築見学で描いたスケッチ 

ほぼロットリング

スペインのバルセロナ ほぼガウディの作品が

点在している あの頃は白黒の紹介写真が多く

実作はカラフルでチャーミングだった

サクラダファミリア 当時は建設現場そのもの

鐘楼にあがる階段が螺旋形アンモナイトの様な

スペインのランチは町食堂でもワイン、デザー

ト付で食べてた思い出がある

王宮の食卓の隣には血なまぐさい戦争勝利の絵

があり、極東の農耕民族の末裔とは血の濃さの

違いを感じたが、70歳超えて肉好きになってい

る自分。

ガウディは、サクラダファミリア 建設途上に

教会のミサの帰り路面電車に轢かれ 信仰に捧

げた一生をひそかに閉じてしまった

f:id:apostrophex:20220220002313j:plain

サクラダファミリア

 

建築 旅行記 倉敷保存地区

 きっかけは原稿依頼があり書き出した。何か理由が分からいないが漂流している。、とりあえずは、出歩いた先での見聞した事を、ネット上に残して置くのも悪くないと。

倉敷は数回行って昼夜歩いた。倉敷は保存再生の代表例ではないだろうか。

 歴史って学校の時に、意味不明の年代と黴臭い話、今の時代の僕達、私達と何が関係あるのと思っていたのが大方ではないかな。そう思うと、もう胸やけ状態の人もいるかも。でも、先代の知恵を吸収しよう。

 建築士の卵 目指す君達、将来、いや、今も、目利きの建物見てきたマダム、又、伝統工法の大家の宮大工さんとか、一緒に仕事する機会があるかもしれない。大方の建築家の方々は、理解ある発注者との信頼関係を作っている。

 知識ないと太刀打ちできない。又、資格がないと一人前にも見てもらえない。

その為に、皆、努力の日々続けているんだよね。

 その意味で、良い例題として、倉敷の伝統的な街並みの保存再生、建築家との繋がりで、発注者と建築家の良き信頼関係の形が見て取れるかもしれない。

倉敷美観地区

1 倉敷市の美観地区景観条例

具体的には、伝統的建造物群保存地区(第一種美観地区)が15.0ヘクタール、伝統美観保存地区(第二種美観地区)が6.0ヘクタールとなっている。位置的には、本町全域、中央1丁目、東町、阿知2丁目、鶴形2丁目の一部となっている。

歴史は、江戸幕府天領として倉敷代官所が置かれ、以来、備中 中国南部の物資の集散地として発展、倉敷川沿いと鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵などが残されている。

倉敷川周辺の伝統的建造物群保存地区は国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。美観地区には、1930年に建てられた大原美術館、そして、保存するだけではなく、代官所跡地に1889年に建てられた旧倉敷紡績工場を改修して、1973年に宿泊施設を中心とした倉敷アイビースクエアなど旧来の建物を再生し、新たな施設とした活用されている。美観地区に隣接して、旧倉敷市役所が、市立美術館として再生されている事も着目すべき事である。

 

2.大原家と建築家の信頼関係

 大原家は、今の倉敷紡績創業家で、様々な事業行い、同時に、文化的な支援を行い、1930年に日本でも最古参の西洋、近代美術を展示した大原美術館を作ったり、文化的な事業を重要視して二人の建築家を登用したんだ。倉敷では、 

  • 薬師寺主計(やくしじ かずえ美観地区 1884年10月~1965年3月) 

大原美術館本館 中国銀行など

  • 浦部鎮太郎(うらべ しずたろう1909年3月~1991年6月) 

倉敷アイビースクエア 倉敷国際ホテル 新倉敷市庁舎 倉敷市立美術館改修など、建築家とクライアントとの密接な関係が見て取れる。

3. 重要施設

・旧大原家自由宅 重要文化財

・有隣荘 大原家別邸 昭和天皇が宿泊された

・倉敷館 登録有形文化財 現在は無料の休憩所、案内所

・井上住宅 重要文化財

・楠戸家住宅 倉敷市重要文化財、国登録有形文化財

・倉敷アイビースクエア 近代化産業遺産 建築家 浦部鎮太郎 改修工事

・旧中国銀行 登録有形文化財 建築家 薬師寺主計 設計 

・山楽会館 旧倉敷郵便局

f:id:apostrophex:20211202214924j:plain

f:id:apostrophex:20211202215028j:plain

 

11月28日 立川飛行機の一式双発高等練習機展示場 行ってきました。最終日か長蛇の列。一時間待ち。立飛の人々の誘導は良かったですね。
昭和12年 双発の練習機で開発 1300有余生産。敗戦と共に全て廃棄。18年 秋田から八戸へ4人の少年航空兵の操縦。 エンジン故障で十和田湖に不時着。たまたま漁に出ていた漁船に1人は助けられたが3人は機と共に湖底へと。
十和田湖、水深の深さと広さで引揚は無理と。たまたま東大の委託で測量会社が発見。偶然にも少しずれた為に最深部は300m。機は50m。東日本大震災後の3月19日に引揚げ開始するも困難さで22日に断念。図面が偶然発見されて強度保てる部分にとエアワイヤーかけて平成24年9月に引揚げ。なにか涙が出てきました。帰ってきたかっだったろうと。
湖底から引き上げられたこの機が、唯一、現存する機体だと。
私の上司が士官学校 少年飛行隊 爆撃機操縦して被弾して隣の同僚が亡くなっても、そのまま飛行を継続せざるを得ない。あの悲惨な事は繰り返してはいけない。
最後は、お母さんと言って亡くなっていったと。
 

f:id:apostrophex:20211130195717j:plain



f:id:apostrophex:20211130195238j:plain

f:id:apostrophex:20211130195313j:plain

f:id:apostrophex:20211130195410j:plain




この時期になると大相撲の九州場所が始まり、スポーツ中継で勝ったの負けたのと。

ある力士が逝去して、会場である福岡国際センターが登場した

つくづく建築する人は、舞台を提供する仕事だなと思う。

若かりし頃、この建物の設計、デザインを担当して、終わった頃には、

事務所を辞してて、新天地へと巣立って福岡のこの建物訪れたのは20年たってから。

福岡は早朝便、深夜便でと通い、8歳上の部長がいたけど

一人だけでスケッチ描いて、提示された原案だとモニュメンタル性がない。

「単形の建築は傑作」と書物読んで、大ナタふるって整理してと。

ガラスと大屋根の建物は、台北で25年後。今、みると感覚は変わらないのだなと。

建物は出来上がると独り歩き始めて、自分より永らえていくのかなとも思う。

f:id:apostrophex:20211121231245j:plain

久しぶりに訪問して撮った写真

f:id:apostrophex:20211121231507j:plain

台北 夜景